日本で知らない人はいないのではないかというくらい、日本全国どこにでもあるアメリカ発のファーストフード店「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」。
「クリスマス、ケンタッキーにしない」はすっかり日本のクリスマスに定着していますが、そもそもKFCはアメリカでどのように誕生し、発展していったのでしょうか。創業者であるカーネル・サンダースに焦点を当てて、KFCの歴史を辿ってみます。
ケンタッキーフライドチキン(KFC)とは?
KFCはアメリカのケンタッキー州ルイビルに本社を置くファーストフードチェーン店で、マクドナルドに次いで2番目に大きいチェーン店です。
現在、KFCのフランチャイズ店は世界150ヵ国22,621店舗あります。
KFCフライドチキンの秘伝のレシピは80年以上もの間引き継がれていて、限られた人しかレシピを知らないと言われています。
日本でオリジナルチキンを調理できる資格をもつORマイスターは約6,000人いて、その中でも最高ランクのフライドチキンを調理できるSライセンス保持者は、わずか2人しかいないそうです。
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創業者のカーネルサンダースについて
日本では店頭に像が置かれているので、KFCの創業者の顔はよく知られていますね。「カーネルおじさん」や「ケンタッキーおじさん」と呼ぶ人も多いのではないでしょうか。
カーネル・サンダースの本名は、ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders)です。
カーネル・サンダース(Colonel Sanders)として広く知られていますが、「カーネル」(Colonel)はケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号からきています。
子ども時代からフライドチキン誕生前までの暮らし
サンダースは1890年にインディアナ州のヘンリービルという所で生まれました。現在KFCの本社があるケンタッキー州ルイビルからは、30キロほど離れた町です。
サンダースには弟と妹がいましたが、1895年サンダースが5歳と時に父親が亡くなり、母親はトマトの缶詰工場に働きに出ていたので、サンダースは弟妹たちの面倒を見たり食事お世話をしていました。
そのため、サンダースは7歳の時にはすでに、料理が上手に作れたといわれています。そして10歳から農場で働きはじめます。
1920年、サンダースの母親が再婚し、家族はインディアナ州グリーンウッドへ引っ越しますが、サンダースは義理の父親と上手くいかず、家庭では騒動が絶えなかったので、13歳の時に学校を辞めて、近くの農場で住み込みながら働き始めます。その後、インディアナ州の南の方へ引っ越して農場労働者として働きます。
しばらくして、母親に勧められておじさんが住む町へ引っ越し、おじさんに紹介してもらい、市電の会社で車掌として働きますが、その仕事もすぐに辞め、生年月日を偽り16歳で陸軍に入隊します。
しかし1年で除隊し、その後は機関車の修理工場や保険外交員、フェリーボートの会社、タイヤのセールスマン等々、何十種類もの様々な職を転々とします。
1924年には、ケンタッキー州ニコラスビルのガソリンスタンドの経営を任され仕事も安定していましたが、1930年に世界恐慌のあおりをうけて倒産します。
辛い子ども時代を過ごし、それからも苦労の連続だったんですね。人生の前半だけでも、波瀾万丈な人生を送っていたことが分かります。
いつの日か、子ども時代の経験が生かされ、苦労が報われる日を信じて頑張っていたのでしょうね。
KFCフライドチキンの誕生
1930年カーネルが40歳の時、ケンタッキー州ノースコビンのガソリンスタンドの経営を任されます。
そこで、サンダースはガソリンスタンドの一角で、チキン料理やステーキなどを提供するサンダースカフェを始めます。
徐々にお店は繁盛し、1935年には「州の料理への貢献」が評価されてケンタッキー州知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられます。(先ほど記述した通り、カーネル・サンダースと呼ばれるわけ)
1932年には20歳の息子を感染症で亡くし、1937年にはモーテルを併設しますが、2年後の1939年に火災によって焼失してしまいます。
サンダースは続けて不幸に見舞われましたが、決して諦めず、140人収容できるレストランを再建します。
そして、1939年に導入された圧力釜を用いて、フライパンよりも早く作れるフライドチキンの秘伝のオリジナルレシピを完成させます。
日本でも当たり前になったフランチャイズの始まり
現在日本でもファーストフード店だけでなく、レストラン、コンビニ、居酒屋などの飲食店はもとより、小売業やサービス業等でもフランチャイズ方式が採られています。
フランチャイズとは、フランチャイズに加盟する法人や人が本部からお店の看板やサービス、商品を使う権利をもらい、売り上げなどの何パーセントかを対価として支払うという仕組み
1952年、サンダースは各地のレストランにフライドチキンの調理法を教えて、売れたチキン1つにつき5セントをもらうという新しいビジネスモデルを始めました。
ユタ州ソルトレイク市のピート・ハーマンが最初のフランチャイジーとなり、フランチャイズ1号店がオープンしました。KFCという名前は、この時にハーマンが提案しました。
その後1955年には、バイパスができて客が入らなくなり、店の経営が厳しくなったこともあり、サンダースはフランチャイズビジネスを普及させることを決意します。店を閉め、借金の返済をして手元に残ったのは、わずかの蓄えと年金の105ドルだけでした。
それからサンダースはワゴン車にフライドチキンを積んで、車に寝泊まりしながら全米各地のレストランを回りました。この時サンダースは65歳でした。
サンダースは成功を信じて諦めなかった結果、1960年には米国とカナダで400店舗、1964年までには600店舗を超えるフランチャイズ網を築き上げました。
1964年、74歳を迎えたカーネルは、経営の権利を譲渡しました。その後はKFCの広報担当として、秘伝のオリジナルレシピがしっかり守られているか、世界中のFC店舗を視察して回り、90歳で亡くなるまで続けていました。
日本のクリスマスには欠かせない存在になったフライドチキン
KFCが進出したのは、1970年でした。当時は、日本ではファーストフードやフライドチキンがあまり浸透していなかったので、店頭にカーネル像を置くことで、KFCの認知度を高めたとも言われています。
日本以外にも、ハワイやタイ、韓国などの北太平洋地域の店舗には置かれているようです。
その後、KFCは「クリスマスにはケンタッキー」との宣伝キャンペーンに乗り出しました。クリスマスに「パーティバーレル」というものを売り出したところ、大ヒットしました。
これは、日本に住む外国人が「日本ではターキーが手に入らないからKFCのチキンを買ってクリスマスをお祝いしよう」と言ったところからヒントを得たといわれています。
当時アメリカの文化に憧れを抱いていた日本人は、アメリカ発のお店が「クリスマスにはケンタッキー」と宣伝したら、そりゃあ「アメリカではクリスマスチキンを食べているんだ~」と思い込み、みんなが買いますよね。
クリスマスにはチキンを食べるという日本独自のクリスマスが定着していっら背景には、KFCの企業努力と戦略があったのですね!!素晴らしいです!!
最新のKFC!フライドチキンを温められるゲーミングパソコン
KFCのゲーミング部門KFC Gamingは、パソコンの動作時の排熱でチキンを温めることができる、4K@240fpsに対応するゲーミングパソコン「KFCONSOLE」を発表しました。
なんとゲームをしている間に、中央の引き出しにフライドチキンを入れておけば、ゲーム中にPCからの発熱で、フライドチキンを温め続け、冷めてしまうことを防ぐというものらしいです。
残念ながら、発売日や価格などの詳しい情報はまだ出されていませんが楽しみに待ちたいと思います。新しいことに挑戦し続けるサンダースの精神が、受け継がれていますね。
まとめ
世界中に愛され続けるKFCフライドチキンですが、ここまで来るには創業者の苦労と努力、諦めないでチャレンジし続ける精神があったからなんですね。
きれいごとではなくて、叶うまでにはどれだけの長い時間がかかっても、途中で諦めずに努力し続ければ、きっといつか夢は叶うのだと教わった気がします。